JR三ノ宮駅から東へ歩いて5分ほど、二宮商店街を抜けた先に、居酒屋「二ノ宮 稀」はある。三宮の中心地からは、あえて少し離れた住宅地に店を構え、足を運んでくれるお客様を、丁寧な料理と遊び心のある接客でもてなす一軒だ。オーナーを務める合同会社KTIの代表社員、西川伸氏は、お笑いの世界を志した時期を経て、洋食、そして日本料理の世界で腕を磨いてきた料理人でもある。三宮の立ち飲み店の店長を務めた4年間で育んだスタイルを、この店で形にした。「美味しいのは当たり前。そのうえで楽しかったと言ってもらいたいんです」。そう語る西川氏に、店づくりへの想いと、生まれ育った神戸への想いを伺った。

合同会社KTI 代表社員/「二ノ宮 稀」店主 西川伸氏(中央)
1. お店を始めたきっかけ
西川氏が初めて飲食の世界に触れたのは、お笑いの道を志し、養成所に通っていた頃に遡る。高校卒業後、芸人や役者を目指しながら、洋食店でアルバイトを始めたという。「オムライスを作ってみたいな、くらいの軽い気持ちでした」と当時を振り返る。
転機になったのは、上京して働いた一軒の居酒屋だった。そこの料理人は、地方でしっかりと修業を積んだ本物の腕の持ち主。それでいて店の雰囲気はどこまでもカジュアルで、自虐ネタで笑いを取りながら、楽しく場を回していた。「料理は本物なのに、なんでこんなに面白いんやろうって。すごく好きになって、こんな大人になりたいと思ったんです」。この体験が、後の店づくりの原点となる。
神戸に戻った西川氏は、腕を本格的に磨くため、日本料理の道へ進んだ。丁寧な接客や確かな技術を叩き込まれる一方、「自分にはカジュアルな方が向いている。でも料理は、ちゃんと本物を出したい」という想いも、はっきりと形になっていった。やがて立ち飲み店の店長を任され、4年間、自分なりのスタイルを磨き上げる。
そして、独立の地に選んだのは、中学時代の先輩が営んでいた今の場所だった。先輩が移転を考えていると聞き、縁を感じたという。「前にいた立ち飲み店、三宮の中心地は、いい意味でも悪い意味でも本当にいろんな人が来て、少し疲れてしまっていて。わざわざここまで来てくれる人に、ちゃんとした料理を出して、しっかりもてなしたいなと思ったんです」。人の流れの中心からあえて外れた二宮で、料理を目当てに来てもらえる店をつくる。そう決めて、西川氏は「二ノ宮 稀」を開いた。

ゆったり食事ができるカジュアルな店内
2.こだわっていること
西川氏のこだわりは、はっきりしている。「美味しいのは、もう当たり前なんです」。情報も技術もあふれる今の時代、美味しいものは比較的つくりやすい。だからこそ目指すのは、その先にある「楽しかった」という一言だ。
そのために西川氏が大切にしているのが、料理に遊びを仕込むこと。たとえば開店当初に出していたのは、見た目は茶碗蒸し、食べてみるとポテトサラダ、という一品だ。「『ポテサラ頼んだんですけど?』『あ、それポテサラですよ』っていうやり取りが生まれる。もちろん味はちゃんと美味しい。そこを外したら、お客様への裏切りになってしまいますから」と笑う。卵黄を漬け込んだ「ドラゴンボール」と名づけた一品もそのひとつ。注文すると、隣のお客様から「それ何ですか?」と声がかかり、会話が弾む仕掛けになっている。

市場から仕入れた鮮魚で彩る刺身
店内の細部にも、思わずツッコミたくなる仕掛けが散りばめられている。器ひとつ、棚に置かれたドリンク一つが、隣り合ったお客様同士の会話のきっかけになる。「今はQRコードで注文するお店も多いですけど、うちはあえて逆を行こうと。会話が印象に残って、『あのスタッフ良かったね、楽しかったね』と思ってもらえる。そういうきっかけを、店のあちこちに散りばめておきたいんです」。
実は、こうした仕掛けの根っこには、西川氏の意外な一面が見られる。「僕、人見知りなんですよ。接客も、得意な方じゃない」。だからこそ、お客様が自分たちで楽しんでくれる仕掛けをつくり、自分は料理に集中する。「接客だけで100パーセント楽しませようとすると、しんどくなる。料理に力を入れる方が僕には合っているんです」。おしゃれな空間でありつつも、どこか昔ながらの居酒屋。その心地よいギャップもまた、らしさになっている。

お酒のすすむ一品が多彩に揃う
3. スタッフとの関係で大切にしていること
現在、店を支えるのは社員2名と、アルバイトの方々だ。西川氏がスタッフに伝えているのは、「お客様と自由に喋っていい」ということ。お客様との会話を楽しみ、自分の言葉で発信してほしいと考えている。
「その子目当てに、また来てくれる。そういうことが起きるんです。人に覚えてもらえるってすごい能力だし、社会に出たとき、その考え方が少しでも残っていたら、きっと強いと思うんです」。会話で人の心をつかむ力は、これからの時代にこそ生きると信じている。
西川氏が何より促すのは、スタッフ自身の成長だ。「飲食って毎日がルーティンで、時間が一瞬で過ぎていく。だからこそ、自分で自分の課題をつくらないと、成長できないんです」。独立を考えている子には、「人のお金で挑戦できるうちに、いろいろやっておいた方がいい」と背中を押す。店を使ってイベントを企画してもいい、という。「この場所を使って、勉強してくれたらいい。それくらいの気持ちでいます」。
その姿勢は、西川氏自身が受け取ってきたものでもある。修業時代から、「自分で考えて、自由にやっていい」という環境に恵まれてきた。今も慕う師のような存在がいる。「自分で課題をつくって、トライして、どうしても壁にぶつかったら相談しに行く。解決して、すっきりした顔でまた報告に行く。『お前は、そのループやな』って言われました(笑)」。的確な助言をくれ、時に筋道を立てて考えることを厳しく諭してくれた。「若いうちは、怒られた方がいいんですよ」。受け取ったものを、今度は自分のスタッフへ。そうして人が育っていく流れを、西川氏は大切にしている。
4. 印象に残るお客様とのエピソード
忘れられないのは、開業のときのことだ。内装工事が大幅に遅れ、資金的にも厳しい時期があった。そんなとき、近所で鉄板焼き店を営むオーナーが、1か月間、店を貸してくれたという。「そこでの売り上げが、考えられないくらいすごくて。工事が遅れて『すみません』と言い続けていたら、みんなが応援に来てくれたんです」。修業時代やこれまでの縁でつながった人たちが集まり、思いがけないスタートダッシュになった。
その場所を貸してくれたのは、西川氏が修業時代にイベントで一緒になった大先輩。「実は10年くらい前、日本料理の修業時代に、あるイベントの打ち上げで、別のお店の打ち上げをしていたオーナーさんに泣きじゃくりながら『俺も頑張ってんねん』って言ったことがあって(笑)。まさか自分が、そのオーナーさんの店を借りることになるとは思いませんでした」。縁が思いがけない形でめぐってくる。
お客様との縁が、店を支える仲間に変わることも多い。高校の後輩がつないでくれた肉屋、いつからか付き合いが深まった魚屋。「一緒にコロナを戦った」と感じられる人たちが、店を支えている。ある日ふらりと入ってきた老夫婦が、日本料理時代の西川氏を覚えていて、今でも時おり訪ねてきくれる。「助けられているし、こっちもどこかで返さないといけない」。だからこそ今、西川氏は自分の店を、次の世代が使える場所としても考えている。

料理も会話も楽しめるカウンター席
5. これからやってみたいこと
さまざまな経験を重ねてきた西川氏が、今いちばん見据えているのは、意外にもシンプルな姿だ。「居酒屋のおじさんを目指そうと思って」。朝から仕込みをして、昼にも仕込んで、夜は淡々と店に立つ。多くを語らず、ただ実直に美味しいものをつくり続ける。そんな店主になりたいという。
その背景には、忘れられない海外での経験がある。縁あって、西川氏はスペインで、現地のオーナーが手がける居酒屋の立ち上げを約3か月間サポートした。言葉の壁を越えて現地の料理人たちと働く中で、大きな気づきを得たという。「料理って、言葉がなくても世界共通でつながれるんやなって。日本料理という閉ざされた世界にいた自分が、一気に世界を見てみたくなりました」。海外では日本食の需要が想像以上に大きいことも肌で感じた。来月からは、コロンビア出身の料理人が新たに仲間に加わる予定もあるという。
いつかは、「二ノ宮 稀」を拠点に人を育て、海外へ送り出せるような仕事ができたら。そんな展望も胸にある。「めちゃくちゃ楽しいやろうな、と思うんです。ただ、それはまだ早い。今はまず、目の前の店をちゃんとやろうと」。ただ、チャンスが来れば断りたくない。けど、無理はしない。等身大の歩幅で、その日を見据えている。
6. この街「神戸」への想い
大阪に生まれ、神戸で育った西川氏。かつて「こんな街、出ていってやる」と思っていた時期もあったという。「面白くないし、小さい街やなって。でも、今は住んでいて、やっぱりいいなって思うんです」。人が多いわけでも、商売に有利なわけでもない。それでも、神戸を拠点に長く続けられる居酒屋になれたら、と願っている。
同世代のお客様には、子どもを連れて来てくれる人も増えてきた。「その子たちが大人になるまで、ここで店をやれたらいいなって」。子ども連れも、お酒を飲まないお客様も大歓迎。地域に貢献しながら、美味しい居酒屋を続けていく。それが今の西川氏の素直な想いだ。
二宮という街への愛着も深い。かつては、はしご酒イベントに参加したこともある。今は店に集中したいと考えているが、地域の催しには、本当に行きたいと思えるものに全力で関わるつもりだ。「やるなら、ちゃんとやろうと。改めて、真摯に商売と向き合いたいんです」。賑わいを生む仕掛けを楽しみながら、この街の一軒として、静かに根を張っていく。
お笑いの舞台を夢見た青年は、洋食と日本料理で腕を磨き、二宮の地に、本物の味と遊び心が同居する居酒屋をつくった。仕掛けの裏にあるのは、「楽しかった」と笑って帰ってほしいという、まっすぐな想い。居酒屋のおじさんを目指す西川氏は今日も、人と人がつながる場所を、静かに、けれど確かに育てている。
店名:二ノ宮 稀
住所:兵庫県神戸市中央区琴ノ緒町2-3-15 プチメゾン1F
【営業時間】
月・火・水・木・金・日/17:00-23:00
火・水・木・金/10:00-13:30 l.o.(平日限定ランチ)
土/13:00-16:00(土曜限定昼飲み)
日/08:00-11:00(日曜限定朝食)
定休日:不定休(Instagramご参照ください)
予算:夜¥6,000~¥7,999/朝・昼¥1,280~¥2,980
席数:20席













